さくら

福島に行ったときに月の写真を何枚も撮った。
現像してみるとそこに白いもやが見えてゾッとした。
原発事故直後に撮影されたチェルノブイリのフィルム映像が思い浮かんだ。
フィルムの銀粒子が放射線にぶつかり破裂する事で一部白く感光したようになる。
晴れ空の下の車内で撮影されたにも関わらず雪が打ち付けるような映像になっていたあのチェルノブイリのフィルム。
カメラマンには見えていなかったであろう。
私のフィルムの白いもやはもちろん放射線によるものではなかった。
偶然にも桜をフラッシュで撮影してそのままにしておいたフィルムを間違えて使ってしまい、多重露光になっただけであった。
一瞬でも信じた自分を後ろめたく思う。
しかし怖いものは怖い。
見えない恐怖。知らない恐怖。
でも私はこの写真が好きだ。
桜も月も良かった。
桜は近所の桜で毎日目にしていたものであった。
月は吹雪の後にやっとのぞいた晴れ間から見え、とても澄んだ空に浮かんでいた。
いいなぁという気持ちと、怖いなぁという気持ちを向けて撮った写真が二つ重なって複雑になった。

制作費の方向性

能瀬さんは16ミリフィルム作品「日日日常」のなかで
「16ミリフィルムは高い、
1分撮影するのに5000円かかる、
時給920円のアルバイトをしている僕は
そのために、5時間半、働かなければならない」
と言っている。
これに関するシロヤス先生の詩はこちら

私も高いフィルムを使っている。
撮影は特別である。しかし特別なものを撮るぞという風にはあまり気をいれないようにしている。
私にとってもあなたにとっても特別なようで何でもないようなものを撮りたいと思っている。
「いや、特に。」「いや、別に。」
そういう感じがいい。そういう時ってだいたい本当は気になっているのである。
そしてどんなに気を抜いても撮影というのはやっぱり特別なもので気になっているものを追ってしまうと思う。
気の向くままというのは特別なことなのだ。
気の向いた先にもっと特別にしてやろうと望む私がいてこの私がやっかいだなと久しぶりに気づいた。