タケニグサ

数年ぶりに身近な植物に関心を寄せている。
もともと植物に興味があり大学で植物研究がしたいと思った時期があったけれど、本当に関心があるのが「植物のみかた」であり、それが視覚や思考の領域であるために美大にいくことにした。

最近は特に毒草でヒトが死んだ歴史について調べている。
アレキサンダー大王軍とかナポレオン軍とか日本軍が野営で夾竹桃という植物を使用したがために死んでいるらしい。

東京国立近代美術館所蔵の川端龍子「草炎」にも猛々しく描かれる夏のはじめに美しさ際立つ「タケニグサ」。これは全草(全体)に毒性がある。
竹煮草とも竹似草とも伝わり、前者はこの植物と一緒に竹を煮ると柔らかくなるから、後者は茎が空洞で竹に似ているからと、名の由来については言われている。
その草の汁が水虫や虫除けに効果があるということで、道端で採集したタケニグサの汁を手に塗ってみることにした。
写真では目立たないけれど白銀の茎、枝、葉の中には濃いえんじ色の液体が詰まっていて驚いた。
その色や皮膚にこびりついて水で消えない様子は記憶の片隅にある「ヨードチンキ」にそっくりだった。

私は毒性のある植物はほとんど口に入れて味を確かめてみるけれど、いままで一度も毒のあるものを「食べられる」と思ったことはない。
このタケニグサの汁に関しては植物毒では一般的なアルカロイドを含んでいるが塗り薬に使用された歴史があるということで、いつもよりも軽い気持ちで口に含んでみた。
すると一気に舌に刺激がひろがり、吐き気がした。
絶対に飲み込んではならないものだと体が理解して、急いで吐き出して口を念入りにゆすいだ。

敏感な味覚を持っていれば人が毒草を誤食することはほとんどないはずだ。
毒性の味に似た苦味のある植物を野菜として獲得してきたヒトは本当に変態(特にチコリー(菊苦菜と書く!))で尊敬するけれど、現代の食卓で毒草の朝鮮朝顔の花の蕾をオクラだと思って食べたり、ギョウジャニンニクイヌサフランを間違えて食べて亡くなったということを聞くと耳を疑う。
それらは危険と感じるほどにまずくて食べられないはずなのだ。



全然関係ないですが、
某大学でピンホールの授業をさせていただいた時に作品参考例として葉っぱに穴を開けて写真撮りました。

はじめは3枚の葉を重ねて穴を作って撮影したけれどうまくいきませんでした。
結局1枚の葉をボディキャップの開口部に貼りつけて穴をあけて撮影。

赤い葉全体の透過光が色フィルターのような効果になっている。

こちらは緑色の葉の中央に穴をあけたもの。

ピンホール現象は自然現象だという話をしました。
映像の起源がピンホールならば、自然現象の観察が映像の起源ということになるのではないでしょうか。

2016年新作個展「しみ そめ しわ」によせて

2015年制作の新作を発表するに際して、そのきっかけとなった実験的制作をあわせて展示する。


2011年8月、自宅に面した公園にある児童プールが解放されて約1ヶ月たったころ、プール付近の側溝から
強い放射線量が計測された。東日本大震災から5ヶ月経過した、福島第一原発から約280km 離れた川崎市の公園である。
やがてそこに集う人々がいなくなり賑やかな子供の声が聞こえなくなると、雑草が高く伸びてきて蝶や鳥が増えてきた。

「パークサイドコーポ」に住む私の生活環境は少なからず変化したようだ。しかし最も変化したのは自分の自然観である。
ある日、朝露を吸うモンシロチョウを見つけると、ふいに心配になって追い払っていた。
同年の3月以前にはその意味を知ることもなかった。

私はこれまで、人にとっての「自然」とその言葉の理解をテーマに制作してきた。
「自然」という言葉を扱う者の意識や、あるコミュニティーで共有される語意によってそこにある「自然」はうつろう。
一方で「自然」と呼ばれるものを見つめることによって、人の営みが見えてくるのではないだろうか。

新作の制作は、青写真の感光液を布に落とすことから始まった。
私にはこれが「しみ」という結果的に汚染された部分なのか、自ら「そめ」という行為に及んだ部分なのかわからなかった。
あるいは布についた液体の形によって、それを発見した者が「しみ」と思うか「そめ」と思うかは異なるところだろう。
調べてみると、この2語は同じ「染」という漢字で書き、もともとほとんど同義らしい。
この両義性を理解できる日本人が現在どれだけいるだろうか。
2語が1語だったころの感性によって得られる視界は、きっと今とは異なっている。

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■山本渉 個展「しみ そめ しわ」
会期:2016年1月23日(土)- 2月27日(土) 12:00 – 19:00(休:日、月、祝日)
会場:Yumiko Chiba Associates viewing room shinjuku
住所:東京都新宿区西新宿 4-32-6 パークグレース新宿#206
電話:03 - 6276 - 6731
URL : http//www.ycassociates.co.jp

トークイベント
日 時:2016年1月23日(土)17:00-18:00 ゲスト:石川 卓磨(美術作家、美術批評)
会 場:Yumiko Chiba Associates viewing room shinjuku
※事前申込制 参加費:無料
※詳しくはプレスリリースをご覧下さい。
《プレスリリース》→
http://www.ycassociates.co.jp/cnt/wp-content/uploads/2016/01/3550610708d8163aa15d4839db7a2aaa1.pdf

■オープニングレセプション
日時:2016年1月23日(土)18:00-20:00
会場:Yumiko Chiba Associates viewing room shinjuku 


■関連情報
代官山 北村写真機店にて開催される山内宏泰氏のトークイベント「写真を読む夜」に山本渉がゲスト出演致します。

日 時:2016年2月5日(金)20:00-21:30
会 場:代官山 北村写真機店
登壇者:山内 宏泰(ライター) × 山本 渉
参加費:1,000円(税込)※立ち見の場合は500円(税込)となります。
定員:40名(着席25名・立見15名)
※事前申込制

【お申し込み方法】
北村写真機店の店頭、もしくはお電話(03-5728-3958)にてご予約をお願い致します。
※受付は開始30分前の19時30分からとなります。
※参加費は当日店頭カウンターにてお支払いいただきます。

詳しくは、代官山T-SITEのWEBページをご覧ください。
http://real.tsite.jp/daikanyama/event/2016/01/post-55.html

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フォンテーヌブローの森

ParisPhoto開催中に展示のため初めての渡仏。
3泊と短い期間でしたが市内の美術館を巡ったり、いままで夢想するばかりだったヨーロッパの森に行ったり、幸福な時間を過ごしました。
フォーンテーヌブローの森はパリ市内からは少し遠いけれど、広大で、西洋絵画史や中世の森の文化史にその名を刻まれた特別な森です。
森の入り口に建つフォンテーヌブロー城からバルビゾンまで森を抜けていく長い長いコースの中には草が踏み固められただけの頼りない道もあり、
そうした森の中を恐る恐る、おとぎ話の主人公になった気持ちでずうっと歩くという経験ができたことは本当にうれしかった。
日本の狭い国土の中ではなかなかできることではない。特に平坦な森が長く続く場所というのはなかなか見つかりませんから。

日本とは植生の異なる見渡す限りの森の中に、かつて中世の貴族が狩り場のために切り開いた森の痕跡や、
ミレーやコローなどバルビゾン派と呼ばれる画家たちが歩き、観察し、描いた風景をたどる。
そういう経験をあとで思い起こす資料になるような写真を撮るのも良いと思いつつ、今回の短い滞在時間の中では難しいと思って諦めました。
その代わりに日本で森の木々を撮るような気持ちで写真を撮ってみようと"フツーに"撮影して帰国してから見てみると、
本の森で撮る写真と大差がなかった。
写っている植物をみれば日本でないことは(植物に詳しい人には)なんとなく分かるのですが、
樫が多く日本に少し似た植生の森を写しても自分の記憶にあるだけでそれが異国の森だと伝わってこないわけです。
ただ現地の人が一緒に写っていたらずいぶん違う印象になったのだと思う。説得力があるというか。
青木ヶ原とか奥多摩の森で西洋のモデルを立たせて撮られた広告が私にはとても不自然にみえるのと同じ話で、
ある人物の肌や髪、瞳の色、質感は彼らの故郷の光と植生、建築に良くなじむ。
また森の比較はできなくても人が比較対象であればそれがどういう質のものか容易に感じ取ることができる。

展示しています

Yumiko Chiba Associates viewing room shinjukuにて、個展「春/啓蟄」が開催中です。
初のカラーネガ作品で新作です。

■会期
2014年7月25日(金) – 8月23日(土)
※夏期休廊:8月10日(日) − 8月18日(月)
open: 12:00-19:00
closed: 日・月・祝日

トークイベント(もう終了しましたが・・)
2014年7月26日(土) 18:00-19:30 *事前予約制
山本 渉×港 千尋(写真家/著述家)

詳細はこちらからご覧ください。
http://www.ycassociates.co.jp/jp/information/yamamoto_spring/

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最近私は制作を釣りだと思って実践しているのかも知れないと思いました。
名刺の肩書きが「写真家」も「アーティスト」もしっくりこないなと思っていたところですが
「釣り師」というのはどうだろう。

熱海

目を撮りたいと思ったのはもともとこの人の目に魅力を感じていたからです。
め、の漢字が眼なのか目なのかはまだ悩んでいます。

この人の目は少し疲れたように見えていて、
私はそこが好きだし、お疲れさまでした。と言いたいと常々思っています。

商業写真の目に映っているものを見るのが私の趣味で、それでだいたいライティングがわかります。
私はそういう「裏側」を撮りたくてこの人の目を撮ったのではなく、
科学写真みたいに虹彩を撮りたいと思ったのでもなく、
では一体何が撮りたいのだと考えながら魅力的な疲れた目を注視していたのですが、
そのうちにその目がきらきらと輝いて、どうしたのかと思えば、涙がでてきたのでした。
ずっと目を開けていると自然と涙がでてくるそうです。

すごい。

増山たづ子さんの写真展を見て

IZU PHOTO MUSEUMで開催された展覧会について。
増山たづ子 すべて写真になる日まで」(2013.10/6~2014.3/2)

何枚か特に印象に残った写真と、展示方法による良い印象というか気付きがあった。
村の先祖の墓石にさらしを巻いて、壊されてダムになる村の様子を見せないように目隠ししているという事を伝える一枚の写真が最も印象に残った。
遠景に更地になろうとしている村、近景にさらしが巻かれた墓石。
たづ子さんは墓石が村を見ているように、墓石の後ろ姿を写すように撮っている。
墓石に巻かれたさらしが目隠しのためだということは添えられた言葉によって明らかになる。
この写真と言葉を目の当たりにして、私はちょっと的外れな事を考え込んでしまったかもしれない。
土地とは先祖のものだったのか・・・・・
目隠しをしたのは先祖に申し訳ないことをしているという自覚があったからである。
こういう思考を日本で保ち続けることが今でもできるだろうか。
その尊さにショックを受けた。
そういえば日本にもトーテミズムがあったのだ。もう無いかもしれないが。

写真の他に、アルバムや映像資料なども展示されていた。
目に留まったのは手紙と押し花、そして同じ部屋に展示されていた花の写真群である。
写真は徳山村に咲いた花を自然種園芸種問わず淡々と写したもので小さなプリントだった。L版だったかな。
その植物の全体が写るように目線の高さから眺めるような構図である。たづ子さんの視界に近いものであろう。
(私も植物はそうして撮るのが良いと思っている。これについては長い時間をかけて作品としてみせるつもりである。)
その展示の近くの机の上に、たづ子さんが移住した後の村民に送った徳山村から採ってきた菊などの花の押し花が展示してあった。
そして一筆、これは徳山村の花です。この香りが届くように。という趣旨の言葉が書かれた手紙もあった。押し花と共におくられたものである。
たづ子さんの徳山村の写真とはこういうものだったのではないか。
つまり、たづ子さんの写真は押し花をそえた手紙のようなものである。
徳山村の一部を物体として残してどうしてもとっておきたいという切ない所有欲と、
それを仲間にプレゼントして共有したいというサービス精神の賜物が彼女の写真であり、
主に写真というメディアを選択した理由になるのではなかろうか。

まだ全然うまく言葉にできないことがもどかしいが、この感じを溜め込んでゆっくり昇華できたら嬉しい。
以前から増山たづ子さんの活動と写真に強い関心を持っていたが、
この展覧会を見て私の心と作品はたいへん豊かなものになったと思う。感謝している。