増山たづ子の記録写真について

好きな写真家の話

増山たづ子(1917年(大正6年) - 2006年(平成18年)3月7日)
60歳を過ぎてから意欲的に写真を撮り始めたアマチュアカメラマンで、出身地である岐阜県徳山村がダム建設によって沈むことを知り、徳山村の記録をはじめる。
もちろんダム建設には反対していたが「国がやろうと思うことは戦争もダムも必ずやるから、反対するのは大河に蟻がさからうようなもの」としてこの事実を受け止めた。
カメラ店に「素人の自分でも写せるカメラはないか」と相談したところ、「猫がけっとばしても写る」とピッカリコニカを勧められたという。

太平洋戦争で夫と弟を亡くしており、戦争の苦しみを生きた人でもある。
もしも夫が帰ってきた時、村がダムに沈んでしまっていたらどう話して良いのかわからない。
たづ子の記録は社会批判でも大文字のドキュメントでもなく、愛の所産であった。

彼女の記録写真からはその被写体に関わらず情が感じられる。
またたづ子の言葉によって写真が、記憶の断片、物語の場面として動き始める。
記録写真において情や物語の介入は否定されがちである。
しかし記録は意志によって行われる。その意志を持つのは情の通った人間である。

たづ子は、満開の桜がパワーショベルによってなぎ倒される様子に、若くして戦死した弟たちのことを重ねた。
そして桜の声を聞く。
「おばあちゃん、たすけてぇー」
「せめてもう少し待ってやってください。お願いします」
祈るようにカメラを構えたのは戦後約40年後の1985年4月25日のことであった。

たづ子はダム建設に沈む故郷の風景に自分の記憶を重ねていた。
写真と文章、音声によって記録された徳山村のダム建設から、我々はたづ子の愛の行為を媒介として、ある戦争の苦しみの記憶を辿ることができる。